2014年10月22日水曜日

死の意味

「死」の意味を理解できた時

我々を初めから死ぬように作られた創造主の計らいを感じる。

例えば枯葉が次の年の養土に変わるように、

冬が過ぎて春が来るように、

沈んだ太陽がまた昇るように、

欠けては満ちる月のように

日々細胞が生まれ変わるように、

毎朝、目が覚めるように、

散った桜が毎年蘇るように

日々の糧として頂戴した生物たちの命が

私達の中で復活するように

生まれる命、終わる命、続く命

これまでも、これからも、いつまでも。

私達はこうやって「生と死」の繰り返しの中で暮らして来た。

私達自身の魂もまた

「生と死」の繰り返しの中で磨かれて来たのだと、考えられないだろうか?

死ぬ意味が分からないから、生きる意味が見いだせない。

死んだ後、何処に行くのか分からないから、「死」を恐れる。

行き先が分からないから不安になるのは当たり前。

死は万民に訪れる。

そして、人は生まれる前に必ず母親の「胎内」にいた。

誰もが「産道」を通って地上にやって来る。

生き物の最大の平等 「胎内」と「死」

私はこの普遍性に真理を感じた。

命あるものは、死んで胎内に帰るのだと思う。

「胎内」というと母親の子宮を思い浮かべるかもしれないが、

そこが宇宙と繋がっていると考えるとどうだろう。

胎内をイメージした時、そこにはどんな世界だろう?

まだ誰とも出会っていない、人間関係のわずらしさもなく、

生きて行く為の苦労も知らず、

安心、安全、暖かく、信頼に満ちて、居心地の良い空間ではなかろうか?

私達は死んで、またそこに帰るのだとしたら

「死」は恐ろしいものではなくなるだろう

主人の告別式で喪主を勤めながら、何度も「生前」という言葉を繰り返した。

「主人が生前お世話になりました」と。

亡くなったのだから「亡前」とか「死ぬ前」と表現してもおかしくはないだろうに

わざわざ、「生まれる前」=「生前」という言い方をするのは何故か?

日本人は知ってか知らずか、無意識に死ぬということは、生まれるということなんだと

語ってきたのだ。

また、死亡した日を「命日」という。

極めつけではあるが、主人の告別式当日、主人本人から弔電が届いた。

ある信頼する女性の手を借りて自動書記という形で、天国からメッセージを届けてくれたのだ。

「裕子さん、今日は私の再誕生の日です。」という言葉から始まって

「私の魂を生み直してくれて、どうもありがとう。私は幸せです」で結ばれていた。

死ぬということは、生まれるということ。

主人が私の胎内に宿っている感覚がある。

思い込みでも、そう信じた方が生きやすくなる。

いつも共にあると信じているからこそ、強くなれる。

そう信じることで、勇気や希望、安心感、が与えられる。

死にゆく人に「大丈夫ですよ」

「元いた場所に帰るだけですよ」

そう言って、手を握り、肌に触れ、呼吸を揃え、寄り添ってあげられたら

看取る側も、看取られる側も、決して不幸せではないだろう。