2014年10月22日水曜日

映画ナレーション

「死」を恐れるということは「人生そのもの」を恐れるということではなかろうか?

例外なく訪れる「死」を “縁起でもない”と言って遠ざけていても

我々は日に日に「終わりの日」に近づいて行くのだから。

定められた「死」を恐れながら生きて行くか

あるいは、楽しみにしながら生きて行くか

「死」をどう捉えるかで生き様が違ってくるだろう。

如何に生きるべきかは、如何に死すべきかを定めて後に見えて来るはず。

人は終わりがあることを知っているからこそ、やり遂げたいことがある。

裸で生まれ、裸で帰ることを知っているからこそ、置いて行きたいものがある。

いずれ手放す肉体だが、与えられたこの肉体を使って

自分にしかできないことをする為にあるのなら

それを成し遂げたいと願うのが本能だろう。

人の死因は「寿命」だと思う。

病気や、事故、災害、、、、、死に方は色々あっても、

生まれた時点で死ぬ日は決まっているのだと。

終わる日が来れば終わる。

逆に言えば、決められた日でなければ、死なない。

自殺を図っても、その日でなければ未遂で終わる。

死にたくなくても、その日が来たら、死ぬ。

47歳で亡くなった主人を周りは「若すぎた」とか「勿体無い」とか「無念だ」とか

言って哀れんで下さったが、

私には、決められたその日に悔いなく終えられるように精一杯生き切ったのだと思える。

決して途中でプツンと終わってしまったのではなく、主体的に終えたのだと。

人生は長さではない。

決められた地上での滞在期間に何を刻んだか。

私の心に、4人の子供達の中に、大切な人達の中に

目には見えない財産を沢山残して行ってくれた。

主人がもし元気に生きていたら、主人の有り難さはわからなかった。

主人がもし余命宣告されなかったら、生きることの意味を真剣に考えなかったと思う。

主人が亡くならなかったら、死後の世界を考えなかっただろう。

闘病生活を支える側の思い、

葬式の喪主の立場、

墓を建てる遺族の思い、

伴侶を失う悲しみも、寂しさも、不安も、心細さも、

主人を亡くしたから通過してきた。

それで、私自身がどれだけ成長できたことか、

どれだけ人の思いやりを有り難く思ったことか、

意味のないことなど、起こりはしないのだと、心から思える。

主人の死を、こうやってプラスに受け止めることで

主人は私の中で蘇ることができるのだ。

「死」を恐れていた頃の私はもういない。

人生をかけて、目には見えない財産を蓄えて行こうと思う。

それらを「生命のエネルギー」に変えて、残される人たちに全て受け渡せると思うと

少しでも沢山残していきたい。

願わないことが続いた時こそ「今が貯めどき!」と思える。

試練はあって結構。乗り越えたらそれはポイントとして加算される。

そんな風に捉えると、人生そのものが「誰かの為」になる。

自分以外の人の為に全財産を差し出すことは難しいけれど

死ぬ時は、この肉体すら置いて行くのだ。

全部、受け渡せるのだ!

感動的、人生の完結シーンを思い描きながらワクワク生きるのも悪くない。