厚生労働省でのアンケートでは、自宅で最期を希望する人が過半数を占めている。
がしかし、実情は自宅での死亡率は8人に一人だ。
自宅で死ねない現実。
日本人の死に場所はこの60年あまりで大きく様変わりした。
1950年当初、病院での死亡率は1割足らずだった。
60年前、8割以上が自宅で亡くなっていたということは
それゆえに死が生活の一部にあったということだ。
いつから「死」が生活の中から切り離されてしまったのだろう。
「死」を見つめる機会が無くなって、「生」の意味もわからなくなったような気がする。
命の重さは「死に行く人」に寄り添うことで初めて実感出来ると思う。
死に様をちゃんと見つめる。
「看取り」の場でしか実感できない命の尊さを知るべきだと思う。
私が「看取り」をテーマにした映画を撮ろう思ったのは
自宅で主人を看取った経験を伝えたかったこともあるが、
看取り士・柴田久美子さんとの出会いがきっかけでもある。
柴田さんの書籍の数々、講演会の内容、これまで何十人もの命を抱いて看取って来られた
その看取りの活動内容、生き様、死生観、本人の生い立ち・・・・
それらに心動かされたのだ。
これから日本は後期高齢化社会を迎え、4人の一人は高齢者となる。
47万人の死に場所が亡くなると言われる2025年問題。
病院は病を治す所であって、死ぬ所ではないとからと受け入れて貰えない。
介護施設は職員もベッド数も足りないから入所困難。
自宅はつきっきりで面倒を見れる人がいない。
本来は住み慣れた一番落ち着く場所で、気心知れた人たちに囲まれ
痛みや苦しみ、不安や恐怖のない、安らかで穏やかな最期を迎えられるのが自然だろう。
無機質な病院は只でさえ違和感がある。
管だらけで薬漬で、自由が制限された最期が望ましいとは言えない。
看取り士・柴田久美子さんは自宅で平穏死を叶える為の取り組みを行っている。
2025年問題の47万人という数字を帰ることはできなくても、47万人の死生観を確立することは出来るのではないか。
何故、人は死ぬように定められているのか
死ぬ時、身体機能が止まった後、その人のそれまでの感情、心、思考はどうなるのか、
魂があるのなら、それは死後どこへ行くのか、
そういった疑問を抱きながら、それを曖昧にしながらも
日々、確実に終わりの日に近づきながら生きていく。
例外なく訪れる「死」を “縁起でもない”と遠ざけていても、
遅かれ早かれ、この肉体は手放さなければならなくなる。
死を恐れるということは、人生そのものを恐れるということではなかろうか。
看取る側、看取られる側、
両者にとって「看取り」の場面を考えることは決してマイナスではないと思う。
この映画が「死」と「生」を考える良き機会となりますよう。