2014年10月22日水曜日

映画エピローグ

人口構成の高齢化で、年間120万人以上が亡くなるようになった日本。

多死社会の到来。

これから「死」は至る所で起こる身近な出来事となる。

2025年問題。

団塊世代の高齢化で47万人の死に場所がなくなると言われている。

厚生労働省の意識調査では、最期を自宅で迎えたいという回答率70%以上。

だが実際の死亡場所は自宅以外が85%に上る。

自宅で死ねない実情。

看取りに関する世界的調査(ICL)の結果で、日本の残念な現実が浮き彫りになる。

終末期「本人の主導であるべき」」と答えたのは76%。

にも関わらず、「現実にもそうである」と答えたのはわずか14%。

また世界では3割前後の人が自宅での見取りが出来ると考えているが、

日本では8%にすぎない。

人生の最期の場面で、本人の希望が汲まれていないのが日本の看取りの実態なのだ。

理想と現実のギャップが大きすぎる日本。

他の国は本人の「QOL」や「尊厳保持」を重視している。

対して日本では 「家族の意向」や「生存時間」を重視している。

「死について良く考えるか?」という問いの結果では

他の国に比べて日本が31%と突出しているが

その中身は主に自分が死んだ後の遺産相続等で、自分がどう死を迎えるかということではないのだ。

日頃から、終末期にどうしたいかを話し合ったことがなければ、本人の意思はわからない。

そうなった時、家族は医師に判断を仰ぐしかない。

医師に依存したまま、本人の尊厳を軽視し、むやみな延命治療で生存時間を延ばすことに

違和感を感じる人は少なくないはず。

医者が「生命支持によかれ」と思って施す医療技術が、患者にとって必ずしも良いとは限らない。

終末期は治すことよりも、生活の質(QOL)を高め

最期まで自分らしい生き方を自分で選択出来るような医療であるべきではないだろうか。

かつては多かった自宅死が減る中で、「死」を実感しにくくなり

得体の知れない、縁起でもないものになってしまった。

その時が来たら

「誰かが何とかしてくれるだろう」という期待も、持てない時代に入っている。

核家族化がこれほど進み、単身で死を迎えるのが当然になって行く時代なのだから、

そろそろ自分の看取りについて、しっかり向き合わなくてはならない。

その為に「死」の教育が必要だ。

死は例外なく誰にでも訪れる。

病院に入院していても、介護施設で暮らしていても、自宅で一人で寝ていても

死ぬ時は死ぬ。

大事なのは「死」をどのように理解し、そう受け取るか

体の状態以上に、心の状態をどう保つか、最期に何を望むか、

それを語り、伝え、共有し合う、命のコミュ二ケーションが大切だ。
いつかは朽ちて行く体に執着して、大事なものを見落とさないように。

初めから死ぬように作られている分け、

肉体がある分け、消える分け、

自分の「死生観」をしっかり持って生きることが、2025年問題を乗り越える一つの方法かも知れない。