2014年10月22日水曜日

マザーテレサは言った。
「たとえ、人生の99%が不幸であったとしても、
最後の1%が幸せならば、その人の人生は幸せなものに変わる」と。

そんなマザーテレサの言葉をこの国で実現させようと
「抱きしめて看取る」実践して来たひとりの女性がいる。

看取り士・柴田久美子さん。
最後の1%を満ち足りた瞬間にする為に
これまで何十人もの命を、その腕に抱いて看取って来られた。

臨終の時、人生のクライマックス、
そこでいったい何が起きているのか
死に行く人を見つめ続けて来た柴田さんは言う。

その人がそれまでの人生で蓄えて来た「生命のエネルギー」がバトンタッチされる瞬間。

たとえ瞳孔が開き、心拍停止の状態にあっても 
その体を抱きしめることで、未だ残る確かな温りを、自分の手に移しながら
大きなエネルギーをいただくのだと。

ちゃんと看取ることが出来ると、旅立つ人との間に信頼関係が結ばれ、
それは肉体を離れても尚つ、消えることなく
むしろ、より深い絆となって、残された者に勇気や希望、安心感を与えてくれる。

見取りで本当に救われるのは、 看取った本人であろう。

ドキュメンタリームービー「いきたひ」~主題歌・「続く命」~

続く命                   

                      作詞・作曲:長谷川裕子

1 旅立つその日が来た。
  
 抱いて送って、この命

 生ききって残していく。明日の為に受け取って

 遠い約束果たし終えて、今いざ逝かん。

 続く命

2 別れは始まりだと 

 笑顔で送ろう、その命

 ありがとう、心こめて何度も捧ぐ 逝く人に

 体ほどけて仏になれ この手に移さん

 続く命

*愛した記憶携えて、今かしこに帰らん

 続く命

====================================

2013年の大晦日、賛美歌のような祈りの歌を作ってみたいと誘われるようにピアノに向かった。

鍵盤に手を置いたその瞬間から、一気に指が動き、同時に言葉も降りてきて

あっという間に、曲が出来た。

歌詞の内容から、これは映画の主題歌になると思った。

8月24日、四谷区民ホール500名ほぼ満席。

「第1回 日本の看取りを考える全国大会」で全国から参加下さった方々の前で

映画の予告編を上映した後、この歌を歌った。

監督として紹介され、舞台で挨拶をさせて頂いた。

「続く命」のプロモーションビデオには有名な俳優が出演しているわけではない。

私の周りで、日々を精一杯生きている名も無き人達に出演して頂いた。

このPVの監督さんのお陰で素晴しい作品に仕上がった。

*長谷川裕子監督「続く命」で検索

死の意味

「死」の意味を理解できた時

我々を初めから死ぬように作られた創造主の計らいを感じる。

例えば枯葉が次の年の養土に変わるように、

冬が過ぎて春が来るように、

沈んだ太陽がまた昇るように、

欠けては満ちる月のように

日々細胞が生まれ変わるように、

毎朝、目が覚めるように、

散った桜が毎年蘇るように

日々の糧として頂戴した生物たちの命が

私達の中で復活するように

生まれる命、終わる命、続く命

これまでも、これからも、いつまでも。

私達はこうやって「生と死」の繰り返しの中で暮らして来た。

私達自身の魂もまた

「生と死」の繰り返しの中で磨かれて来たのだと、考えられないだろうか?

死ぬ意味が分からないから、生きる意味が見いだせない。

死んだ後、何処に行くのか分からないから、「死」を恐れる。

行き先が分からないから不安になるのは当たり前。

死は万民に訪れる。

そして、人は生まれる前に必ず母親の「胎内」にいた。

誰もが「産道」を通って地上にやって来る。

生き物の最大の平等 「胎内」と「死」

私はこの普遍性に真理を感じた。

命あるものは、死んで胎内に帰るのだと思う。

「胎内」というと母親の子宮を思い浮かべるかもしれないが、

そこが宇宙と繋がっていると考えるとどうだろう。

胎内をイメージした時、そこにはどんな世界だろう?

まだ誰とも出会っていない、人間関係のわずらしさもなく、

生きて行く為の苦労も知らず、

安心、安全、暖かく、信頼に満ちて、居心地の良い空間ではなかろうか?

私達は死んで、またそこに帰るのだとしたら

「死」は恐ろしいものではなくなるだろう

主人の告別式で喪主を勤めながら、何度も「生前」という言葉を繰り返した。

「主人が生前お世話になりました」と。

亡くなったのだから「亡前」とか「死ぬ前」と表現してもおかしくはないだろうに

わざわざ、「生まれる前」=「生前」という言い方をするのは何故か?

日本人は知ってか知らずか、無意識に死ぬということは、生まれるということなんだと

語ってきたのだ。

また、死亡した日を「命日」という。

極めつけではあるが、主人の告別式当日、主人本人から弔電が届いた。

ある信頼する女性の手を借りて自動書記という形で、天国からメッセージを届けてくれたのだ。

「裕子さん、今日は私の再誕生の日です。」という言葉から始まって

「私の魂を生み直してくれて、どうもありがとう。私は幸せです」で結ばれていた。

死ぬということは、生まれるということ。

主人が私の胎内に宿っている感覚がある。

思い込みでも、そう信じた方が生きやすくなる。

いつも共にあると信じているからこそ、強くなれる。

そう信じることで、勇気や希望、安心感、が与えられる。

死にゆく人に「大丈夫ですよ」

「元いた場所に帰るだけですよ」

そう言って、手を握り、肌に触れ、呼吸を揃え、寄り添ってあげられたら

看取る側も、看取られる側も、決して不幸せではないだろう。

映画ナレーション

「死」を恐れるということは「人生そのもの」を恐れるということではなかろうか?

例外なく訪れる「死」を “縁起でもない”と言って遠ざけていても

我々は日に日に「終わりの日」に近づいて行くのだから。

定められた「死」を恐れながら生きて行くか

あるいは、楽しみにしながら生きて行くか

「死」をどう捉えるかで生き様が違ってくるだろう。

如何に生きるべきかは、如何に死すべきかを定めて後に見えて来るはず。

人は終わりがあることを知っているからこそ、やり遂げたいことがある。

裸で生まれ、裸で帰ることを知っているからこそ、置いて行きたいものがある。

いずれ手放す肉体だが、与えられたこの肉体を使って

自分にしかできないことをする為にあるのなら

それを成し遂げたいと願うのが本能だろう。

人の死因は「寿命」だと思う。

病気や、事故、災害、、、、、死に方は色々あっても、

生まれた時点で死ぬ日は決まっているのだと。

終わる日が来れば終わる。

逆に言えば、決められた日でなければ、死なない。

自殺を図っても、その日でなければ未遂で終わる。

死にたくなくても、その日が来たら、死ぬ。

47歳で亡くなった主人を周りは「若すぎた」とか「勿体無い」とか「無念だ」とか

言って哀れんで下さったが、

私には、決められたその日に悔いなく終えられるように精一杯生き切ったのだと思える。

決して途中でプツンと終わってしまったのではなく、主体的に終えたのだと。

人生は長さではない。

決められた地上での滞在期間に何を刻んだか。

私の心に、4人の子供達の中に、大切な人達の中に

目には見えない財産を沢山残して行ってくれた。

主人がもし元気に生きていたら、主人の有り難さはわからなかった。

主人がもし余命宣告されなかったら、生きることの意味を真剣に考えなかったと思う。

主人が亡くならなかったら、死後の世界を考えなかっただろう。

闘病生活を支える側の思い、

葬式の喪主の立場、

墓を建てる遺族の思い、

伴侶を失う悲しみも、寂しさも、不安も、心細さも、

主人を亡くしたから通過してきた。

それで、私自身がどれだけ成長できたことか、

どれだけ人の思いやりを有り難く思ったことか、

意味のないことなど、起こりはしないのだと、心から思える。

主人の死を、こうやってプラスに受け止めることで

主人は私の中で蘇ることができるのだ。

「死」を恐れていた頃の私はもういない。

人生をかけて、目には見えない財産を蓄えて行こうと思う。

それらを「生命のエネルギー」に変えて、残される人たちに全て受け渡せると思うと

少しでも沢山残していきたい。

願わないことが続いた時こそ「今が貯めどき!」と思える。

試練はあって結構。乗り越えたらそれはポイントとして加算される。

そんな風に捉えると、人生そのものが「誰かの為」になる。

自分以外の人の為に全財産を差し出すことは難しいけれど

死ぬ時は、この肉体すら置いて行くのだ。

全部、受け渡せるのだ!

感動的、人生の完結シーンを思い描きながらワクワク生きるのも悪くない。

映画エピローグ

人口構成の高齢化で、年間120万人以上が亡くなるようになった日本。

多死社会の到来。

これから「死」は至る所で起こる身近な出来事となる。

2025年問題。

団塊世代の高齢化で47万人の死に場所がなくなると言われている。

厚生労働省の意識調査では、最期を自宅で迎えたいという回答率70%以上。

だが実際の死亡場所は自宅以外が85%に上る。

自宅で死ねない実情。

看取りに関する世界的調査(ICL)の結果で、日本の残念な現実が浮き彫りになる。

終末期「本人の主導であるべき」」と答えたのは76%。

にも関わらず、「現実にもそうである」と答えたのはわずか14%。

また世界では3割前後の人が自宅での見取りが出来ると考えているが、

日本では8%にすぎない。

人生の最期の場面で、本人の希望が汲まれていないのが日本の看取りの実態なのだ。

理想と現実のギャップが大きすぎる日本。

他の国は本人の「QOL」や「尊厳保持」を重視している。

対して日本では 「家族の意向」や「生存時間」を重視している。

「死について良く考えるか?」という問いの結果では

他の国に比べて日本が31%と突出しているが

その中身は主に自分が死んだ後の遺産相続等で、自分がどう死を迎えるかということではないのだ。

日頃から、終末期にどうしたいかを話し合ったことがなければ、本人の意思はわからない。

そうなった時、家族は医師に判断を仰ぐしかない。

医師に依存したまま、本人の尊厳を軽視し、むやみな延命治療で生存時間を延ばすことに

違和感を感じる人は少なくないはず。

医者が「生命支持によかれ」と思って施す医療技術が、患者にとって必ずしも良いとは限らない。

終末期は治すことよりも、生活の質(QOL)を高め

最期まで自分らしい生き方を自分で選択出来るような医療であるべきではないだろうか。

かつては多かった自宅死が減る中で、「死」を実感しにくくなり

得体の知れない、縁起でもないものになってしまった。

その時が来たら

「誰かが何とかしてくれるだろう」という期待も、持てない時代に入っている。

核家族化がこれほど進み、単身で死を迎えるのが当然になって行く時代なのだから、

そろそろ自分の看取りについて、しっかり向き合わなくてはならない。

その為に「死」の教育が必要だ。

死は例外なく誰にでも訪れる。

病院に入院していても、介護施設で暮らしていても、自宅で一人で寝ていても

死ぬ時は死ぬ。

大事なのは「死」をどのように理解し、そう受け取るか

体の状態以上に、心の状態をどう保つか、最期に何を望むか、

それを語り、伝え、共有し合う、命のコミュ二ケーションが大切だ。
いつかは朽ちて行く体に執着して、大事なものを見落とさないように。

初めから死ぬように作られている分け、

肉体がある分け、消える分け、

自分の「死生観」をしっかり持って生きることが、2025年問題を乗り越える一つの方法かも知れない。




2025年問題

人口構成の高齢化で、年間120万人以上が亡くなるようになった日本。

多死社会の到来。

これから「死」は至る所で起こる身近な出来事となる。

2025年問題。

団塊世代の高齢化で47万人の死に場所がなくなると言われている。

厚生労働省の意識調査では、最期を自宅で迎えたいという回答率70%以上。

だが実際の死亡場所は自宅以外が85%に上る。

自宅で死ねない実情。

看取りに関する世界的調査(ICL)の結果で、日本の残念な現実が浮き彫りになる。

終末期「本人の主導であるべき」」と答えたのは76%。

にも関わらず、「現実にもそうである」と答えたのはわずか14%。

また世界では3割前後の人が自宅での見取りが出来ると考えているが、

日本では8%にすぎない。

人生の最期の場面で、本人の希望が汲まれていないのが日本の看取りの実態なのだ。

理想と現実のギャップが大きすぎる日本。

他の国は本人の「QOL」や「尊厳保持」を重視している。

対して日本では 「家族の意向」や「生存時間」を重視している。

「死について良く考えるか?」という問いの結果では

他の国に比べて日本が31%と突出しているが

その中身は主に自分が死んだ後の遺産相続等で、自分がどう死を迎えるかということではないのだ。

日頃から、終末期にどうしたいかを話し合ったことがなければ、本人の意思はわからない。

そうなった時、家族は医師に判断を仰ぐしかない。

医師に依存したまま、本人の尊厳を軽視し、むやみな延命治療で生存時間を延ばすことに

違和感を感じる人は少なくないはず。

医者が「生命支持によかれ」と思って施す医療技術が、患者にとって必ずしも良いとは限らない。

終末期は治すことよりも、生活の質(QOL)を高め

最期まで自分らしい生き方を自分で選択出来るような医療であるべきではないだろうか。

かつては多かった自宅死が減る中で、「死」を実感しにくくなり

得体の知れない、縁起でもないものになってしまった。

その時が来たら

「誰かが何とかしてくれるだろう」という期待も、持てない時代に入っている。

核家族化がこれほど進み、単身で死を迎えるのが当然になって行く時代なのだから、

そろそろ自分の看取りについて、しっかり向き合わなくてはならない。

その為に「死」の教育が必要だ。

死は例外なく誰にでも訪れる。

病院に入院していても、介護施設で暮らしていても、自宅で一人で寝ていても

死ぬ時は死ぬ。

大事なのは「死」をどのように理解し、そう受け取るか

体の状態以上に、心の状態をどう保つか、最期に何を望むか、

それを語り、伝え、共有し合う、命のコミュ二ケーションが大切だ。

いつかは朽ちて行く体に執着して、大事なものを見落とさないように。

初めから死ぬように作られている分け、

肉体がある分け、消える分け、

自分の「死生観」をしっかり持って生きることが、2025年問題を乗り越える一つの方法かも知れない。


*文芸春秋 2014 11月号 を読んで。

2014年10月9日木曜日

映画ナレーション

高齢化で、年間120万人以上が亡くなるようになった日本。

厚生労働省でのアンケートでは、自宅で最期を希望する人が過半数を占めている。

がしかし、実情は自宅での死亡率は8人に一人だ。

自宅で死ねない現実。

日本人の死に場所はこの60年あまりで大きく様変わりした。

1950年当初、病院での死亡率は1割足らずだった。

60年前、8割以上が自宅で亡くなっていたということは

それゆえに死が生活の一部にあったということだ。

いつから「死」が生活の中から切り離されてしまったのだろう。

「死」を見つめる機会が無くなって、「生」の意味もわからなくなったような気がする。

命の重さは「死に行く人」に寄り添うことで初めて実感出来ると思う。

死に様をちゃんと見つめる。

「看取り」の場でしか実感できない命の尊さを知るべきだと思う。

私が「看取り」をテーマにした映画を撮ろう思ったのは

自宅で主人を看取った経験を伝えたかったこともあるが、

看取り士・柴田久美子さんとの出会いがきっかけでもある。

柴田さんの書籍の数々、講演会の内容、これまで何十人もの命を抱いて看取って来られた

その看取りの活動内容、生き様、死生観、本人の生い立ち・・・・

それらに心動かされたのだ。

これから日本は後期高齢化社会を迎え、4人の一人は高齢者となる。

47万人の死に場所が亡くなると言われる2025年問題。

病院は病を治す所であって、死ぬ所ではないとからと受け入れて貰えない。

介護施設は職員もベッド数も足りないから入所困難。

自宅はつきっきりで面倒を見れる人がいない。

本来は住み慣れた一番落ち着く場所で、気心知れた人たちに囲まれ

痛みや苦しみ、不安や恐怖のない、安らかで穏やかな最期を迎えられるのが自然だろう。

無機質な病院は只でさえ違和感がある。

管だらけで薬漬で、自由が制限された最期が望ましいとは言えない。

看取り士・柴田久美子さんは自宅で平穏死を叶える為の取り組みを行っている。

2025年問題の47万人という数字を帰ることはできなくても、47万人の死生観を確立することは出来るのではないか。

何故、人は死ぬように定められているのか

死ぬ時、身体機能が止まった後、その人のそれまでの感情、心、思考はどうなるのか、

魂があるのなら、それは死後どこへ行くのか、

そういった疑問を抱きながら、それを曖昧にしながらも

日々、確実に終わりの日に近づきながら生きていく。

例外なく訪れる「死」を  “縁起でもない”と遠ざけていても、

遅かれ早かれ、この肉体は手放さなければならなくなる。

死を恐れるということは、人生そのものを恐れるということではなかろうか。

看取る側、看取られる側、

両者にとって「看取り」の場面を考えることは決してマイナスではないと思う。

この映画が「死」と「生」を考える良き機会となりますよう。

2014年10月6日月曜日

続く命

私のドキュメンタリームービー

「いきたひ」~家族で看取る~の主題歌「続く命」は

昨年の大晦日に突然降ってきた。

賛美歌のような「「祈り」の曲が作りたいと思い、

誘われるようにピアノに向かって鍵盤の手を置くと

殆ど勝手に指が動き、言葉も誰かが語りかけてくるように聞こえてきた。

私は元々、楽譜の読み書きが出来ないまま曲を作っているので

とりあえず、紙に言葉だけ書き記した。

そうやって30分くらいすると、一つの曲はが完成した。

あっと言う間の出来事で、正直驚いた。

私が作曲したようで、作らされたような感覚。

ふと思った。

この歌を映画の主題歌にしようと。

この歌は、8月24日に東京の四谷区民ホールで開催された

「第1回日本の看取りを考える全国大会」の場で初披露させて頂いた。

500人満席の会場ですすりなく声が聞こえ、手応えを感じた。

やはり私の歌ではないと。

会場に持ち込んだCDは完売。

沢山の方々から握手を求められて、有り難く思った。

このプロモーションビデオはたった一日で収録した。

しかも前日、急遽撮影が決まり

出演して下さる方や、撮影場所を提供して下さる方を一日で集めた。

この映像と私の声と歌詞と旋律が完全にひとつとなって、素晴しい作品が完成した。

サントリーウーロン茶のCMで「蘇州夜曲」を歌った李広宏さんが

この「続く命」を聞いて感動して下さり、機会あったら歌わせてほしいとご連絡くださった。

*長谷川裕子監督「続く命」で検索頂けたら、YouTubeで聞くことが出来ます。


映画監督として

この造語に何とフリガナを付けたいか?

自分の人生観で見た時、これを何と読みたいか?

これまで数え切れない人に質問してきた。

生死、人生、一生、輪廻、転生、今、光、あうん、旅、ライフ、生きる、墓、堺、、、、

人それぞれに、違っていいわけだが

私はこれに「いきたひ」とフリガナをふっている。

「生」という漢字の下にカタカナで「タ」と「ヒ」

生タヒ「いきたひ」

フリガナは「いきたひ」で「いきたい」と読む。

生と死は切り離すことが出来ない。

生まれたということは、その瞬間から死に向かっているということ。

「生」の5角目と「死」の1角目は繋がっている。

何の為に生まれてきたか は 何の為に死ぬのかを知らずに

答えは見出せまい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
~いきたい~
生きたい  自分らしく生きたい
行きたい  成長して行きたい
活きたい  自分を活かしたい
逝きたい  最期まで尊厳を持って逝きたい
往きたい  輪廻の世界を往復したい
生きた日  生きた日々に蓄えた生命の灯火

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

生まれてくる為には 数え切れない人の命が必要だったし、誰一人欠けても自分は生まれてこれなかった。

先に死んだ方々があっての自分

そして我々は生きていく為に、日々命を頂戴している。

水と塩以外は皆、命があるという。

「死」の上に成り立つ「生」

我々の「生」を支えているのは「死」とも言えないか。

日蓮上人が言った。

「されば先ずは臨終のことを習うて後に、他事を学ぶべし」

いくら勉強して知識をつけても、臨終の意味することを知らずして何の意味もないと。

どういう終わり方をしたいか、人生の完結シーンを描くことは

「今」を生きることに繋がるはずだ。

先ずは予告編をご覧頂けたら幸いです。

長谷川裕子監督 「いきたひ」で検索頂けたら、YouTubeで予告編をご覧いただけます。



2014年4月2日水曜日

来宮神社と箱根神社

熱海在住の友人に会いに行く途中、旅の連れが急に

箱根神社に行ってみたいと言うので向かった。

途中で見えた富士山の美しさに圧倒された。

芦ノ湖に隣接する箱根神社は歴史を感じさせた。
そこで九頭龍様にも参拝すると、何やら龍神様の気配がした。

箱根から熱海に向かう道で素晴しい景色に出会った。

思わず車を止めてカメラに収めた。

神秘的な芦ノ湖、雪化粧の富士山、真っ青な空、柔らかな日差し、爽やかな風、

澄んだ空気・・・・

この国はまだまだ美しい!!
熱海に到着して、地元の友人が案内してくれた「来宮神社」は「龍の頭」と言われており

図らずも「龍の尻尾」と言われる「箱根神社」の二社詣となった。

私は約7ヶ月ぶりの来宮神社だったが、懐かしさがこみ上げてきて

思わず「ただいま」と声にしてしまった。

地元の友人が「おかえり」というので、本当に受け入れてもらっているような気がした

2千年大楠にも会えて、恒例の楠廻りをした。

この木の周りを一周すると寿命が一年延びるそうだ。

また癒しの力があるとかで、実際に幹に触れていると腰痛が消えた。


この大楠は龍化していて、本当に龍に見えてしまった。

熱海を見下ろす絶景の、温泉付きのマンションに住んでいる友人が案内してくれた場所。

そこからは大島が見えた。
空と海と松と桜と大島。その美しいこと、スケールが大きいこと、
人生は短い、やりたくないことを やっている暇なんか無い。

今できることを、精一杯するんだ!!

過去にとらわれず、未来をあれこれ心配せず、今、与えられたこの時をしっかり味わおう!

そんな気になった。

目黒川に延々と続く桜並木の美しさに圧倒された。

この花を「国花」と選んだ日本人の精神性と美学を誇りに思う。

大雪の冬を超えたからこそ、一際輝いて見える。

厳しい冬を超えたものにしか出せない輝きと威厳が有るように思う

冬の寒さをきちんと通過した方が、花は美しいという。

今年2月の記録的な大雪も、この花に繋がっていたのだ!

そう受け止めると、桜が更に美しく思える。

2014年3月28日金曜日

母の着物

成人式や卒業式、入学式に来賓で参加する際、正装と言えばやはり着物。

失礼のないように、毎回着付けを頼んでいたが、いい加減に自分で着れるようにならなければと

着付けを教えている友人にお願いして、浅草の着付け教室に出かけた。

以前、自宅に来て教えて頂いてから3週間

この期間、練習を重ねて長男の卒業式と、次男の小学卒業式は自分で着付けして参加した。

(*鏡に映っているのでえりが反対です)

今回、約3週間ぶりに師匠の前で着て、

「お見事!」との お褒めのお言葉を頂戴した。


昨年、実家(秋田)の母が、自分の着物を送ってきてくれた。

私とは全く体型が違うので仕立て直してくれた。

母がその着物を着ていた記憶は全くないのだが

色合い、絵柄、光沢、全体の雰囲気・・・・

本当に私好みの着物で、まるで私の元に来ることになっていたかのようだった。

帯も見るからに立派なもので、どこに出ても恥ずかしくないようだった。

せっかく送ってもらったので、どんどん着たいと思い、

この度、浅草に持って行き、帰りは着物で帰った。

正装の帯、二重太鼓を教えて頂いたが背中に手を回しての作業なので

結構な運動で、肩関節の柔軟性を問われる。

以前は作り帯で着ていたが、その場で作る帯の方がいいと思い挑戦してみた。

自分で着付けも帯も出来るようになると、着た感じがちがう。

着付け教室の後、大好きな友人二人と共に、夜の浅草を歩いた。

着物はいい。着る側にとっても、見る側にとっても。

三人揃って着物姿で歩いていると、通りすがる人たちの視線を感じた。

着物は日本の宝だと思う。

着物文化を見直し、もっともっと普段から身に付けるようになったら

精神面も違ってくるように思う。

帯をしていると「腹が座る」感覚がある。

姿勢も良くなるし、仕草も、言葉使いも違ってくるから不思議

着物は女性を美しくすると思う。

来年、長女が成人式。

母娘で着物姿で歩けたら嬉しい。

この度、母から着物を譲り受けて、これを娘たちにも渡したいと思った。

母から娘へ、娘から孫へ、

代々継承されながら、価値も深まっていく着物。

東京オリンピックまでに、着物人口が増えるといいと思う。

浅草の着付け教室にはピアノもあり、なんと大画面の液晶TVもあった。

最近、私の映画の予告編上映と、映画挿入曲の弾き語りと、トークのスタイルで

ライブをしているので、このスペースはぴったりだと感じ、早速企画を立てることにした。

和服でピアノ弾き語りも悪くない。

2014年3月27日木曜日

オペラコンサートの司会

3月15日、日高市アリーナでオペラのコンサートがあり、主催団体の一つに

高麗郡建郡1300年記念事業委員会があったので

日高市のPRも兼ねて、高句麗の古代衣装姿で司会を務めさせて頂いた。

お色直しを4回

緑⇒オレンジ⇒水色⇒赤

お客様の中には日高市外らこ来れた方々もいらっしゃったので

高句麗の古代装束を初めてご覧になった方々はかなりのインパクトがあったと思う

何より出演のイタリア人バリトン歌手は大喜び!!

着替える度に写真を撮っておられた。

イタリア人は感情表現が豊か。

あるヒーラーさんが2年前、私の前世はイタリアのベローナでオペラ歌手だったことがあるとの

リーディングをして下さったが

なんと、今回のバリトン歌手ヴィクトル・ガルシア・シエラさんは

現在イタリア・ベローナ野外歌劇場の常連歌手。

何だか懐かしく感じた。

日高市から世界に羽ばたいたソプラノ歌手・柳沼裕美さんはイタリア在住で、

この度の帰国に合わせて国内でコンサート活動をしておられる。

コンサートの最後に挨拶をして頂いたが、

「生まれ育った土地で、歌えることは最高に幸せです」と涙ぐんでいた。

楽屋で色々話す中で、気さくな女性と知り、すっかり仲良くなった。

イタリア人のご主人との間に5歳のお嬢さんがいて名前が「ナウシカ」ちゃん

また「ナウシカ・オペラインターナショナル」も設立され

幅広い芸術活動に取り組んでいらっしゃる。

浮世離れした芸術家と思いきや

学生時代は陸上や卓球で体を鍛えていた体育会系の活発で明るい方

たのもしい方で嬉しくなってしまった。

打ち上げの場でスタッフと「花は咲く」を合唱した際、

私が会場にあったピアノで伴奏を弾いたのだが、

楽譜があったわけでもなく、キーの高さも知っていたわけでも無く、

しかも、弾いたことのない曲だったので、

本当に自分の指に任せて鍵盤に手を置くと、勝手に弾いてくれた。

「楽譜もないのに、よくその場で弾けましたね!とても歌いやすい伴奏でした」

と言われて、私自身が驚いた。

私の歌も聴きたいとのお声を頂き、恐れ多くも世界で活躍するオペラ歌手の前で

「ふるさと」の弾き語りをした。

歌はいい。

国境も言語も、時代も超えてしまう。

コンサートの司会をしながら私が一番楽しませて頂いたような気がする。

また今回のコンサートのプロデュースをされた作曲家で柳沼裕美さんの恩師でもあられる

日下部満三さん


ウィーンでピアノを学び、今はピアノコンクール曲の作曲、審査員などをされる方。

こんな素晴しい方々とご縁が持てて自分は恵まれていると思う。


第300回・人間関係とストローク自主研修会

講師の依頼が増えて来て思うのは、一回一回が真剣勝負、完全投入。「一期一会」

二度と会えないかもしれないし、講演会がきっかけで縁が深まるかもしれないし、

とにかく目の前のお客様に、全身全霊で語る。

いつものテーマ「言葉と体と心はリンクする」

今回も体験コーナーを入れ、発する言葉が体にどれだけ影響を与えるのかを体験して頂いた。

また姿勢が精神面にも影響を与えることを伝えさせて頂いた。
また、実体験として4人の子供達がどのようにして「父親の死」を受け入れていったか

私自信がどのように「パートナーの死」を受け止めているのか

今、制作中の映画について等、講話させて頂いた。

お陰様で、持参した著書は完売

サインを入れたり、握手をしたり、精算をしたり、

あたふたとしていると「手伝います。斎藤です」と傍でてきぱきと対応して下さった方がいた。

初めてお会いしたが、FBでは繋がっており、わざわざ名古屋から聴きに来て下さったのだ。

同じ未亡人、お子さん3人。

今回書籍を購入できなかった方々には、後で郵送という形で届けることができた。

今回の講演会がきっかけで沢山の方々とご縁を頂き、

 有り難いことに次の講演依頼も頂いた。


参加者108名

とても有意義な時間となった。

こちらの方は次回の講演会で講師を勤められる宮本晴天さん。

明るい笑顔からは想像も出来ないくらいの、様々な試練を乗り越えて今を生きていらっしゃる。

特にうつ病を克服するまでの体験談には、頭が下がってしまった。



書家としても、素晴しい字を書かれる。

6月29日(日) 13:30~16:00 大井町きゅりあん 

テーマ「私のうつ病克服体験と妻のうつ闘病」


先月、大雪にも関わらず私のライブに何時間もかけてお越し下さった方々が

今回の講演会にもお越し下さった。

名古屋からお越し下さった方も「来た甲斐がありました」と喜んで帰っていかれた。

北原佐和子さん

高校生の頃、ブラウン管の中で輝く北原佐和子さんを見ていた。

今もタレント、女優、として旅番組や、2時間ドラマに出演しているけれど

同時に素晴しい活動をしている。

「プレシャスライフ・心の朗読会」

命の貴さを伝える為に、朗読を通して学校や、企業を回っている。

日高市内の小学校で朗読会が終わった後、大人向けに市内のレストランで開催された。

北原さんは、人気アイドル時代と変わらず、可愛らしいままではあったけれど

朗読の声はとても落ち着いていて、語り調子も穏やかで、

優しい笑顔が印象的だった。

朗読会の内容は、私が映画で伝えようとしている世界と殆どダブっており、

私の頭の中は、北原さんと一緒に出来ることはないかと、検索し続けていた。

朗読会終了後、お話しながら、

二人とも同じ学年であること、ご自身の実家がここ日高市にあること、

その日、訪ねた小学校で食べた給食が高麗鍋だったこと、

色々接点もあり、意気投合して、その後、渋谷で開催された私のライブにも来て下さった。

北原さんは映像に音楽を流し、そこに自分の朗読を乗せて行くスタイル

私も自分の映画の予告編の後、ピアノの弾き語りや詩の朗読、トークといった流れで

講演活動をしていて、テーマは「命」

きっと、お役目が同じで、やり方も同じ、

一緒になることで、より沢山の方々に伝えられるのなら、トライしてみたいと思う。

このタイミングで、この出会いに感謝!!


2014年3月24日月曜日

長男・義務教育終了


あっという間、というより 長かった。

色々あったから。

来月から長男は高校生。

主人のお墓参りに行く途中いつも通っていた高等学校に、縁あって通うこととなった。

主人が亡くなった後、一番ダメージが大きかったのが長男。

10歳の少年の、その小さな胸の奥に、私も立ち入ることの出来ないほどの深い悲しみがあった。

火葬の前日「お父さんを燃やしちゃうの?」としくしく泣いた。

壊れてしまうのでは、と、私も心配したが

遺骨を拾いながら、勝ち誇ったように言った

「ざまぁみろ!ガンも燃えちゃった、これでお父さんもう苦しくないね」

驚いた。何か吹っ切れたんだろう。

亡くなって1ヶ月ほど経って、近所の方が長男に声をかけて下さった

「子供は親を選んで生まれて来る」と。

それがまた一つ彼を強くした。

ある日、思い切って長男に尋ねてみた。

「優太はもう大丈夫?」

すると、視線を外らしながらも彼は言った。

「お母さん、あのさ、子供って親を選んで生まれて来るんだって。

お父さんは早く死んじゃったけど、早く死ぬお父さんを選んだのは僕なんだ

自分でそう決めたんだからしょうがない。

あのお父さんで良かったって思う」と。

あぁ~、大丈夫。こうやって乗り越えて行くんだ。

10歳にして与えられた試練。

だが、それを乗り越えられると信じて、彼自信が自分に課した試練。

それほど彼は強い魂を持っていると、信じたい。

いつでも見方になってあげよう。

名前の如く「優しい太郎」:優太

私が疲れて居間で横になっていると

「こんな所で寝てないで、ベッドで寝たら?」などと声をかけてくれる。

時には黙って布団をかけてくれる。
背が低くいのに、バスケットボール部で3年間、体を鍛えた。

クラスでも一番背が低い。

だけど私は「小さな巨人」と呼ぶ。

彼の優しさは私が一番知っている。

主人が亡くなってから、私がアクセル全開で走り続けてきたから

ゆっくり話し合う時間も取れないまま来てしまった。

色々と相談したいこともあっただろうに・・・

ゴメンネ。

「子は親を選んで生まれて来る」

こんな私を母として選んでくれた。

私の元に生まれて来てくれた。

主人を亡くす私の人生を承知で、寄り添うために生まれてきてくれた。

ありがとう。

卒業おめでとう。

お祝いの言葉


長男の卒業式で、教育委員として祝辞を述べさせて頂いた。

長男の学年は東日本大震災の影響で、計画停電や余震がある中で

中学の入学式を迎えた。

そのことにどうしても触れたかった。

帰る家があること、友がいて普通に学校に通えることの有り難さ、

命があることの尊さ、

それらが当たり前のことではないということを忘れないで欲しいと。

そして3つの言葉を送った

「志」  どんなに小さくても目標を持とう。自分の命を何に使いたいか考えて見て欲しいと

「和」 足りないところは補い合うように出来ている。
     ひとりで味わう達成感より、沢山の人と分かち合う喜びの方が大きい。

「動」 頭であれこれ考えてしまい一歩が出ない時、思い切って行動してみる。
    動けば変わる 動けば出会う、動けば繋がる

そして何より、これから続く自分の人生をしっかり味わってほしいと。

 

ついに卒業


13年間続いた小学性の保護者の立場から、私も卒業。

次男の小学校の卒業式に、来賓として出席した。

壇上で祝辞を述べながら、次男と共に育ってきた150名の卒業生達の成長ぶりを嬉しく思った。


次男は小学2年生で父親を亡くしたが、

とても明るく、前向きに、クラスのムードメーカーとして友達も多く、

素直に育ってくれた。

毎朝、主人は「いってらっしゃい」の後に「気を付けるんだよ」と

言葉を添えて子供達を送り出していた。

今朝、次男に「お父さんがいってらっしゃい!って言ってるよ」と言うと

次男は嬉しそうに「気をつけてね!だってさ」と言った後

「行ってきます」と小学最後の登校へ。

次男の中では未だ、主人は生きているんだなぁ。

梅や、中には桜の蕾も見受けられる、春を感じさせる日に

めでたく卒業。

4人の子供のうち、次男だけがこちらで小学校の入学式を迎えた。

上の3人は引越しと共に途中入学だった。

それでも、みんな同じ小学校の卒業生。

例えば30年後、子供4人で母校を訪ねたりして・・・・

その時に教職員の先生方の名前と顔が一致していると

思い出しながら、盛り上がるだろうなぁ


卒業、おめでとう!!

2014年2月24日月曜日

司会をします


世界で活躍する日高市出身のオペラ歌手、柳沼裕美さんとその仲間たちが

コンサートを開催する。

当日の総合司会を務めさせて頂くことになったが

今回は高麗郡建郡記念事業としてのコンサートでもあるので

PRも兼ねて、高句麗の古代衣装で舞台に立つことにした。

チケット:07065100521(ハセガワ)



2014年2月22日土曜日

最後の授業参観

次男の小学最後の授業参観に行った。

小学卒業まで残り1ヶ月の6年生達の言葉は、保護者達の涙を誘った。

「お腹が痛い思いをして産んでくれてありがとう」とか

「心配してくれてありがとう、支えてくれてありがとう」とか

「立派な6年生にしてくれてありがとう」とか

そしてこの言葉には感動した

「僕達、私達は自分を生きて行きます。一生懸命生きていきます!」

クラス全員が英語と日本語で将来の夢を語った。

彼らの夢を聴いていて、こちらまでワクワクした。

教室の壁に貼ってあった「生きる」というタイトルのそれぞれの詩は

子供達の活き活きした言葉で表され、清々しい風を感じさせた。

次男の詩もまた、彼らしい真っ直ぐな言葉で描かれ、心打たれた。

8歳で父親を亡くした少年が

「家族といられるということ」「手で家族をさわれるということ」「目で家族が見れるというと」

それが「生きる」ということだと感じたのだ。

過去でも、未来でもなく「今」を精一杯生きている、そんな気がした。

見えること、触れられること、体験出来ること

それらを思いっきり味わっているような、そんな気がした。

もうすぐ卒業。

子供4人、小学生の保護者として13年間、ようやく私も小学校を卒業。

子供と共に進級しよう。

人生は一生、学びだから。

卒業式は保護者としてではなく、教育委員として壇上で祝辞を述べさせて頂く。

息子と共に成長してきた、同学年の友達にも、心を込めてお祝いの言葉を伝えよう。

そして、子共を育ててきたお母様達にも、同じ母親として

子育ての苦労に労いの言葉を届けよう。

お世話になった先生方にも感謝でいっぱいだ。

2014年2月21日金曜日

実は再会

神門メソットで大活躍の飯島敬一先生と、そのマネージャーの早川さん

月刊誌「ゆほびか」編集部の岩崎裕朗さん

初めましてと名刺交換をしながら、よく聞いていると

実は8ヶ月前に4人は既に出会っていたことに気が付いた。

4人が一緒だったという証拠写真を見つけ、盛り上がってしまった。

お互い話せば話すほど、共通点が出てくる。

主人が亡くなる1ヶ月ほど前、私は「ゆほびか」の記事に支えられた事があった。
神門メソットには、昨年の夏休み、家族全員で参加した。

チャクラを使ってスプーンを曲げたり、重い物を簡単に持ち上げたり

痛みの有る部分を直したり、体の歪みを取ったり・・・・

宇宙の仕組みを学んで、驚きや発見がたくさんあった。

飯島先生が私が映画を作っていることを知り、応援したいとのことで

とにかく会って経緯を伝えることになった。

飯島先生の次回作(電子書籍)に私のことも書きたいということになり

ゆほびかの編集部の岩崎さんをご紹介頂いた。

私の映画の予告編を見て頂くと、とても感動して下さり

私が言う「あの世とこの世の合同制作」の意味を理解頂けたようだった。

また、私の講演は体操と、ピアノの弾き語りと、トークと、映画のセットになっていることで

早川マネージャーが関心を持って下さり、

今後、全国的に展開する方向で話を進めていくことになった。