2011年12月29日木曜日

No22・高麗神社の神楽殿にて

1月4,5,6、日

日高市の文化的、歴史的中心地でもある、高麗神社にて

高麗郡建郡1300年に関しての解説を務めさせて頂く事になりました。

会場は高麗神社ではありますが、あくまでも高麗郡建郡1300年記念事業実行委員会が行う広報活動でございます。

私も実行委員ですから。

大勢の参拝客が訪れるこの時期に、出来るだけ多くの皆様に日高市の歴史、文化を知って頂きたく思いますので、

私は例の通り、高句麗の壁画から再現した古代衣装を身に纏い、PRさせて頂きます。

私の長女は昨年から巫女としてのご奉仕をさせて頂いております。

高麗神社は、「出世の神様」がその思いを叶えて下さいます。

出世の意味や、度合いは人それぞれに違いがあると思いますが

「為に生きたい」とか、「世の中に貢献したい」とか、

動機が利他にあれば、必ず、お力を貸して下さると思います。

実は、私の寝室に、高麗神社のお札が置かれており、

私の一日は朝そこで、感謝の儀式から始まります。と言いましても、自己流ですが。

 “今日も宜しくお願いします”ではなく、

“お陰様で今日も充実した一日となりました。ありがとうございます。”と

過去形にしてご挨拶します。その日の予定を一通りシュミレーションして

願望達成を先取りにしてしまいます。

全て叶った事をイメージしながら、お礼を申し上げるという形です。

そして一日の終わりも、感謝のご挨拶で終わります。

“今朝の祈りの如くになりました。本当にありがとうございました”と。

初詣の際は、

“この一年、素晴らしい年となりました。あなた様のお陰です。ありがとうございます。”

と、心から唱えます。

もちろん前年の感謝もお伝えしますが、一年後の自分を想像しながら

わくわくする瞬間まで手を合わせます。

人生のシナリオライターは本人ですから、なるべく具体的に描いた方が良いです。

なので、本殿の前で祈る内容は、事前にしっかりとまとめておいた方がよろしいかと。

聖書の冒頭(創世記第1章3節)にもありますが、

神様は“光あれ”と言います。すると光が現われ、神様は満足します。

私は、その一説に全てのヒントがあるように思うのです。

まず、宣言する。初めに言葉ありき。

その如くになると確信できなくても、とりあえずは言葉にしてみる。

聴いてくれる相手がいなくても、まずは声に出す。

実はそれが、ちゃんと届いているのだと感じます。

ピン!と来た方は、来年の初詣で実践してみて下さい。

No21・今年もお世話に

今年は皆さんにとってどんな一年でしたか?

3月の東日本大震災を通して、色々と考えさせられましたね。

共に生きてきた家族を失い、帰る家を失い、故郷を追われ、仕事を変えざるをえず

今も過酷な状況の中、懸命に生きている人達もいますよね。

また、震災後、いたたまれず、被災地へ向かい、そこで「為に生きる」ことの大切さを覚えた方もいらっしゃたでしょう

人の痛みを、自分の痛みとして感じられた人、

逆に無力感を感じた人

私にとっても、この一年は大きな変革の一年でした。

欲しいものと、必要なもの の区別を付けられるようになった気がします。

当たり前の事に感謝出来るようになりました。

蛇口から水が出て来ることも、有難い事です。

お風呂に入れる事、布団で眠れる事も感謝です。

今月、京都の伏見稲荷でご祈祷をして頂きましたが、

そこで、今年出逢った方々、日頃からお世話になっている方々、家族、体操の生徒さん達、

私が関わる皆さんのお顔と、お名前を思い浮かべ、お一人お一人に

“ありがとう”を伝えました。

本当に、本当に、ありがとうございます。

皆様からどれほどの力を頂いたか知れません。

全ての出会いに心から感謝いたします。

この一年だけでなく、これまでの人生を振り返ってみた時に

たくさんの方々のお顔が思い出される事自体、有難い事です。

そう思うと、自分の人生は、自分以外の人達によって形成されているのだと分かります。

登場人物がたくさんいて、その分それに付随するストーリーがある分けです。

豊かな人生とは、出逢った人との関わりの深さ、

どれだけ深く絆を結んだか、で決まるような気がします。

私も、たくさんの人の中で生きて行きたいです。

たくさんというより

その人の人生に欠かせない登場人物として、なるべく良い影響を与えて生きたいものです。

それにはまず私自身が充実した日々を送っていなくてはと思うのです。

なので、来年も、わくわく感と、感謝力で一日一日をクリアしていきたいと思います。

どうか、どうか

皆様が良い新年を迎えられますよう、お祈り申し上げます。

2011年12月27日火曜日

No20・秀夫という名前の先生

てんつくマン続きのブログで、呆れられそうですが

今日、書類を取りに次女の志望校に行きました。

学食に、てんつくマンの書下ろしが飾ってあった例の私立高校です。

そこで、個別相談担当の先生とじっくりお話をさせて頂きました。

てんつくマンの書下ろしについて、どうやら、7年ほど前にこちらの学校でてんつくマンの講演会が行われたようなのです。

書下ろしはその時の作品との事。

人生と書いて

何でもありとよめばいい

決められた運命があるとしても

変わることも出来る

大切にしてゆくのは

自分自身の

今のキモチ

   てんつくマン




てんつくマンを講師として呼んだ先生は国語の先生らしく、名前が、私の主人と同じ「秀夫」。

亡き主人の導きでしょうか?

そして、お話して下さった先生も、名前が「英雄」さん。

それから、先日、担当して下さった先生が高麗川中学校の先輩でしたが

現在の教頭先生も、前教頭先生も日高市在住とか、

たまたま偶然の事、としてさらっと流すことも出来ますが、

これは、何かのご縁、と受け止めたら、そこから何かが始まるような気もします。

1月29日、秀夫先生とお会いできるのが楽しみです。

「英雄」先生も、てんつくマンに関心があったとの事で、チラシをたくさん受け取って下さいました。

私が、てんつくマンの“迷った時はわくわくする方を選ぶ”という話をしますと、

“ごもっともです!”と。

なぜそう思うのか、美術的観点から、お話下さいました。

何だか、心温まる時間でした。

No19・出逢い

12月27日(火)

今日の体操教室に新しい方が参加して下さいました。

なんと先日の、てんつくマンムービーの上映会に来て下さった方です。

飯能市から電車に乗ってきて下さいました。

てんつくマンの名前しか知らなかった方ですが、今回の映画で関心を持って下さったようです。

そして、レッスン終了後、またまた、偶然にも高麗川駅でその方とばったり再開し

車内で色々と話す中で、てんつくマンと繋がりそうな人達を紹介頂けることになりました。

チラシも拡散頂けそうで、本当に有難いです。

また毎回、熱心に通って下さっている生徒さんが、川越駅前でチラシを見たというので

詳しく聞いて見ると、先日出会った路上詩人ののりお君が書下ろしをしながら

てんつくマンのチラシを配ってくれていたようなんです。

こうやって物凄い勢いで、人と人との輪が広がって行くのを感じます。

私が立ち上げたチーム「和と輪」というグループの名前も、ある日、天から降りて来たんです。

和が、輪となって、どこまでも広がっていくイメージ。

てんつくマンの講演会をやると決心してから出会った皆さん

飯能青年会議所の皆さん

コミュニティシネマはんのうの桝本代表

ボランティアグループ「For Y」の若者達

赤門塾の塾長はじめ、先生方、

次女受験予定の私立高校の先生方、

NPO法人情熱塾の方々

その他に個人的に、短期間で実に多くの方々との出会いが有り、

その展開に驚きを感じます。

以前にも書きましたが、人は腹をくくると人を引き寄せると・・・。

人は、腹をくくった人間に引き寄せられる。と

こうやって私を突き動かすのは、いったい何なのだろう?と

自分でも不思議です。

この企画が、私の名誉に繋がるわけでも無く、営利に結びつくわけでも無く、

特に何か得をする事は無いわけで・・・

ただ、てんつくマンと出会った事がきっかけとなって

今の世の中に風を吹かせたいという思いにスイッチが入ってしまった

「動けば変わる」という言葉に心が大きく反応してしまった。

てんつくマンの力を借りて、私も、やれるだけやってみようと血が騒いでしまった。

彼の目指す所と、私自身が目指す所が同じだと感じたからかも知れませんが、

それほど、てんつくマンとの出会いは大きかったという事です。

そして気が付くと、てんつくマンの影響を受けたという人が思いの他、多かった。

思いは引き寄せ合いながら、繋がって行くものなんですね。

奇跡は起きるものではなく、起こすものという気がします。

2011年12月25日日曜日

No18・てんつくマン発見!

12月25日(日)

次女の高校説明会に行ってビックリ!

そこの高校の在校生に校内を案内していただいたのですが

学食の入り口ロビーで、ふと顔を上げると

壁に一畳分程の紙が貼られており、何やら躍動感あふれる、文字がたくさん書かれていました。

そしてなんと最期に てんつくマン と書かれているではないですか?

目を疑いました。

いったい何故にここにてんつくマンの書下ろしが掲げられているのか

ここにてんつくマンが来たのだろうか?

この学校と、てんつくまんと何か関わりがあるのだろうか?

案内係りの男子生徒に尋ねると、入学前から既にそこにあったとの事

入学試験についての説明をして下さった男性の職員を捕まえて

更に尋ねますと、てんつくマンを支持してる先生がいらっしゃるとかで

その先生が、学校用に書下ろしをして貰った作品らしいのです。

私は初めて訪れた学校で、厚かましくも、対応して下さった先生に、

てんつくマンのチラシを30枚程、手渡してしまいました。

“もう、冬休みに入っているので、生徒達には配布出来ませんが・・・”

と言われて、すぐに

“いいえ、先生方にお知らせしたいんです。人を育てる側におられる方々にお伝えしたい内容なんです。”と答えました。

“職員達だけでよろしいのであれば、良いですよ”と、チラシを受け取って下さいました。

たまたま今、てんつくマン講演会を成功させる事で頭がいっぱいの私にとって

余りにも偶然。

4日前の川越で出会った 路上詩人のりと君にしろ

3日前の私のライブ会場にも、てんつくマンを知っているというお客様がいらしたりと

何か大きな流れを感じてしまいます。

引き寄せの力でしょうか?

そしてこれもまた偶然なのですが、個別相談で対応して下さった方が

なんと日高市で生まれ育った方で、娘と同じ高麗川小・中学校卒業の先輩でした。

そこで、地元の話で盛り上がってしまいました。

何十人もいる教職員の中で、何故にその先生に当たったのでしょう

これもご縁なのでしょうか?

第1志望校では無かったのですが、心が揺れてしまいました。

私が受験するわけではありませんが、父兄として関わる事になるわけですし。

如何に苦労せずに済むかを考えて、楽な方にと向かってしまう次女に対して

“目標は高い方がいいんだよ。

君なら、もっと上を狙えるから、受験コースを1ランク上げたてみたら?”と

推薦して下さいました。

次女も、少しその気になった様で、第3者の励ましは大きいなと思いました。

帰宅後、中1の息子に、今日の出来事も含め、ここ最近のてんつくマン関連の偶然的な話を伝えると、彼はさらっと言いました。

“要するに、てんつくマンは日本中至る所で、書いたり、喋べったりしてるって事なんでしょ。”

・・確かにー。

彼の一歩一歩が、こうして映画や書籍や講演会や個展や村作り、NPO法人、カンボジア支援、
被災者支援活動という形になって、今やその名を全国に轟かせているのです。

『動けば変わる』

この精神を私自身が自分のものにする事で、自ずと周囲に広がって行くものと信じています。

自らが自立と自律に目覚め、自らアクションを起こして欲しいと思います。

2011年12月24日土曜日

No16・クリスマスライブ

12月22日(木) 18時半~21時

ストラマネジメントデザインのオフィスで第5回目のライブをしました。


お寒い中にも関わらず、会場に足をお運び下さった皆様、

本当にありがとうございました。

何日か前に、お客様からリクエスト頂いていた「FLY ME TO THE MOON」

無事に歌えられて、そして、それが思いの他、喜んで頂けてほっとしています。

これまで、この歌は歌った事が無かったのですが、

リクエストを頂いた後、ネットで検索し、初めてじっくり聴きました。

私は楽譜の読み書きがほとんど出来ませんので、全て耳コピーですが

今回、色々なバージョンを組み入れて、自分なりにアレンジしてみました。

最初、スローバージョンで語りかけるように始まり

次にボサノバ調にリズムを刻み、

最後はアップテンポのジャズ風に盛り上げて終わるという構成。

ピアノも習った経験が無いので、全くの自己流ですが

今回のアレンジは自分でも、楽しませて頂きました。

良い経験になりました。

これをきっかけに、この歌は歌い続けて行きたいと思います。



お客様にお一人にお一人にご挨拶。

3連休前の晩、こうしてお集まり下さった皆様に感謝、感謝です。

本当に私は「人の縁」に恵まれています。

私のブログを毎日楽しみにして下さっているという方もいらっしゃって

そういう人達がいるからこそ、生き生きと前向きに生きて行けるのだと実感致します。

歌い終えた後、拍手を頂いたり、CDをご購入頂いたり、握手を求められたりすると

本当に生かされている自分を感じます。

こうして愛を頂いた分、お返しして行きたいと思います。

No15・歌と朗読会

12月23日(金)

今日は「さんだ」で、私の歌と朗読会のライブがあり

約30名程のお客様と楽しいひと時を過ごす事が出来ました。

とても純朴で真面目な人柄のお客様方ばかりで

初めは堅い雰囲気がしましたが、手遊びやリトミックを入れ、参加型に変えて行く中で大分、打ち解けた感じになりました。

喜んで貰えて良かったです。

明日はクリスマスイブなので、クリスマスソングをたくさん歌いました。

私なりに精一杯のクリスマスプレントをお届けしたつもりです。

日本のクリスマスは、イエス・キリストとは無関係なところで、盛り上がっているように思います。

私はミッション系の高校に通っていましたので、イエス様の存在が大きかったです。

我が家では子供達に、クリスマスの贈り物をあげたことが一度もありません。

“本当のサンタさんはね、本当に必要な人の所にしかいかないんだよ”

と言い聞かせて来ました。

クリスマスケーキは頂いた事はありますが、自ら買ったり作ったりした事はありません。

夢が無いと思われるかも知れませんね

でも、イエス様が私達を見てどう思うだろうか?とか

神様がイエス様をこの地上に誕生させた意味は?とか

そんな事を考えると、ケーキを食べたり、プレゼントを交換したりすることに、

あまり意味が無いように思えてくるんです。

クリスマスの夜に外食したこともありません。どちらかと言えば質素に過ごします。

家族全員揃っている事に、改めて感謝したり、賛美歌を聞いたり、歌ったり・・・

あくまで長谷川流クリスマスの過ごし方なので、賛否両論あるかも知れませんが。

優しい気持ちで過ごすのが一番だと思います。

2011年12月21日水曜日

No14・路上詩人のりお

12月21日(水)

明日のライブで着るステージ衣装を探しに川越まで行きましたが、

ピンと来るものに出会えず、諦め、帰る事にして、駅に向かう途中

路上で字を書いている青年を見かけました。

一度は通り過ぎたのですが、どうも気になって、戻りました。

てんつくマンも、路上詩人からスタートした分けで

てんつくマンの原点を見た気がして、思わず声を掛けてしまいました。

“てんつくてんつくマンって知ってる?”と

すると

“僕の師匠です!”と目をキラキラさせて答えました。

なんと彼は、震災後てんつくマンと一緒に被災地に支援活動に出かけていた

てんつくマンのメルマガにも登場したことのある、のりお君だったんです。

聞くところによると、明日から4日間、支援活動の為に、石巻に向かうそうです。

今日は特に冷え込みが激しく、そんな中、路上に座って、立ち止まってくれる人を待ち続けているんです。

私は、たまたま、てんつくマンの講演会チラシを持っていたので

“今度、てんつくマンを呼んで講演会を主宰するからおいでよ!てんつくマンも喜ぶと思うよ!”

と言って、チラシを渡すと、チラシのデザイン性や思い入れに感動してくれ

“行きます!行きます!”と喜んでました。

引き寄せの力でしょうか

私はステージ衣装を求めて、電車に乗って川越まで来たのに

ドレスには当たらず、のりお君に出会った。

そして私は一筆、書いて貰いました。


黄色とオレンジの円を描く所から始まり、緩やかな2本のカーブを描き、

次に“僕の目を見て下さい”というと、じいっと私と目を合わせ

それから、筆を持ち、目を瞑り、大きく息をしてから、言葉を書き始めました。

私の為に書いてくれた言葉なのですが、

彼の優しさが溢れた言葉達。

“どうして黄色とオレンジなの?”と尋ねると

“オレンジは元気な色です。裕子さんはエネルギッシュな方だから・・・”

更に“黄色は?”と尋ねると

“優しさです”と。

色紙一枚の値段は、私が決めていいんです。

書いて貰った人が、受け取ってみてから、自分で値段を付けるわけなんです。

てんつくマンも、そうやって始めましたから。

てんつくマンの映画を自主上映したばかりで

てんつくマンに会ってきたばかりで

これからてんつくマンの講演会を開催しようとしている私の目の前に

突如、現れた、のりお君。

素直に応援したいと思いました。

5千円札を手渡すと、“おつりは?”と聞かれてしまいました。

“どうぞ。受け取って”と笑顔で渡しました。


隣にはのりお君の友達も書下ろしをしていました。


これが作品です。


心がピュアな人は、神様も応援したくなることでしょう。

“東北は寒いだろうから風邪ひかないでね。いっぱい愛を届けて来てね!”と言って

別れました。




是非、皆さん、応援してあげて下さい!

明日のライブは、のりお君が書いてくれた言葉の通り

『すべての瞬間、裕子は輝いているから、ありのままの愛くるしい裕子で』

を胸に、気取らず、力まず、素直に、ありのままで、お客様の前に立とうと思います。

明後日は、「さんだ」で、弾き語りと朗読の会をします。


のりお君が初対面の私を見て、オレンジ色のイメージを感じとってくれたとの事でしたが

ご覧下さい!

高麗川駅に着くと目の前に、この光景が広がっていました。

オレンジ色の世界。本当に美しい。神様は芸術家ですね!

思わず、今日の神様の作品をカメラに収めました。

シャッターを押して2分後には、この夕日、山の影に姿を消してしまいました。

沈んだ太陽は、明日の朝には、また蘇えるんですね

今日とはまた違う顔で。

当たり前の事ですが・・・

人間も再生を繰り返しているのだと思います。

2011年12月19日月曜日

No13・静岡でてんつくと

12月18日(日)

静岡県清水市の会場で、アメリカから帰国したばかりのてんつくマンのワークショップに参加して来ました。


*「完璧」 か 「完壁」 か どちらが正しいか?

日本人の90%が間違えると言われています。

正しくは 「 壁 」ではなく 「 璧 」が正解。

“つまり完璧な人間はおらんちゅうことや。みんな間違えるんや”という話。


行きの新幹線の中から富士山をずうっと見つめていました。

というか、富士山と会話をしてました。


あなたの様に、誇りに満ちて、美しく、堂々と、揺るぎない不動の心で生きて行きたいものです。

その存在そのものが、エネルギーの塊のようで

見る人、登る人にパワーを送り続けているあなたのような人に

私もなりたい・・・

日本人で良かったとも思いました。

最近は空気が乾いているせいか、ここ日高市からでも富士山がくっきりはっきり見えます。

富士山を見つけると、何故だか両手を合わせて“ありがとうございます”と声に出してしまうんです。

変ですかね・・・?

今日は、うっかり携帯を家に置き忘れて出かけてしまい、しばらく焦ったり、不安になったりしてましたが、

携帯を持たない一日を過ごし終えて、いかに依存していたかを思い知りました。

一番、気になったのは、子供達の事。

私の留守中に何かあったらどうしよう・・・

でも、心配からは何も生まれない、逆に心配が心配の種を運んできてしまう

と気付き始めて、その心配を手放すことにしたんです。
あの子達なら大丈夫!

4人もいれば、それぞれで助け合って何とかするだろう

子供達の生きる力を信じよう。

私への依存心から卒業するきっかけになるかも知れないし・・・

等と、自分に言い聞かせました。

そして、帰宅すると、なんと、なんと

出かける前よりも家の中がきれいに片付いていて

洗濯物も片付いていて、キッチンの洗い物も片付いていて、

夕飯は自分達で適当に作って食べたようですし、

最終電車で、深夜0時半に家に着くと

次女が “お母さんの分も、デザート作っといたからね”と自慢げに言いました。

私がいなければいないなりに、子供達は自分達で考えたり、工夫したりしてやれる事をやるんだぁと、ほっとしました。

てんつくマンがよく言います。

『親というもんは、何でもやってあげるもんやないでぇ!、

やり方を教えて、自分でやれるようにしてやらなぁあかん。何でもやらせたらええんや。

やがては、世の中に手放さなあかんのやからな 』

この3週間、毎週、新幹線で出かけていて、私は子離れ、子供達は親離れの訓練になりました。

てんつくマンのワークショップについては次回また ご紹介します。

余りに内容が濃すぎて伝えきれません。

自分も愛せずして、人を愛せはしない。

自分がまず幸せにならないと、人を幸せにできるわけがない

その本当の意味が分かりました。

静岡まで出かけた甲斐がありました。

そして驚いた事に昨日のてんつくマンの映画を観に来て下さった入間市の方が

今日の静岡会場にいらしていてホットな再開に感動しました。

嬉しい事に、今回初めて生てんつくマンのワークショップを受けたとの事で、

とても感動したので、1月29日の飯能市での講演会に、友達をたくさん誘って行きたいと言って下さいました。

また八王子から参加していたご夫妻がいらっしゃって、近いから行けそうと話して下さったり

静岡の方なんですが、知人が飯能市にいるから行くように進めてみますと言って

チラシを何枚か受け取って下さったり  


てんつくマン自身が、今回のチラシを見て

“へぇ~,よう凝ってんなぁ~”と 感心してくれたり

私も “こうやって私がはるか遠く埼玉県からやって来たように、

今度は皆さんが埼玉に来てください” と言えました。

会場の皆さんは、100人の思いのこもったチラシを受け取って大事そうにしていらっしゃいました。

“そのちらし、どうか大切に保存して置いて下さいね”と伝えて来ました。

自分を向上させる為に、メンタル面を強化する為に、夢を実現する為に、

“今、必要だなっ!”とピンと来るものが有ったら、どんどん飛び込んでみたらいいと思います。

講演会やセミナー、ワークショップの他、映画や、コンサートでもいいですから

自分の直観を信じて、一歩踏み出して欲しいと思います。

『 動けば変わる!』

自主上映会をようやく終えて、ちょっと休みたいところでしたが、

思い切って、静岡まで時間とお金を掛けて出かけてみて良かったと思います。

そこででしか得られない出逢いや、感動や、学びがあったと思えるからです。

一歩、踏み出せた自分に、ありがとう。

2011年12月18日日曜日

No12・自主上映会、終了

12月17日(土)

今日、この日の為に5か月間、走り続けて来ました。

今、達成感と感謝の思いで、胸がいっぱいです。

本当に出来るかなぁ・・・と、分けも無く不安に襲われることもありましたが

てんつくマンンの

“出来るかどうかではなく、やるかやらないかだ!”

という言葉で、弱気な自分を跳ね除けて来ました。

今日,会場に足を運んで下さった人達に心から感謝しています。

集客数は予定より下回りましたが、私は、量より質だと思っていましたので

その点では、本当に素晴らしいお客様ばかりでした。

5歳、9歳の孫と観ましたとか、

70代の母を連れて来ましたとか、 

年配のご夫婦、小学生、中学生、大学生、OL,、主婦、会社社長・・・

アンケート用紙の内容に感動しっぱなしです。

上映会を開催して良かったと思わせてくれる、有難い言葉がたくさん有りました。

日高市、飯能市だけでなく、入間、狭山、川越、所沢、立川,、さいたま、東京都内・・

中には、もう何度も観たことがあるという方もいらっしゃたり

自分も上映してみたい。とか

一人で観に来たのがもったいない。とか

てんつくマンに会ってみたいです。とか

スイッチが入りました。とか

引きこもっている場合じゃぁないですね。とか

生きる力を貰いました。とか

支え合う大切さを学びました。とか

また挿入歌が良かったという感想もありました。

主人に見せたいので、次の上映会場を教えて下さいと、いう方がいらして

調べて教えて差し上げました

一番嬉しかったのは “自分から動いて行きたいと思った。”という言葉。

『動けば変わる!』の精神を広めていきたい私にとっては 

その一言に“やったぁ~!”とガッツポーズを取ってしまいました。

“私は出来る!”と握りこぶしで胸をたたきながら、会場を出てきた方もいらして、

お客様が前向きに、元気に、生き生きとして会場を去って行く姿を見て、

本当に嬉しかったです。

“来て良かった”その満足気な表情が、忘れられません。

てんつくまんを知らなかった人達が、映画を観た後で、1月29日の講演会に参加したいと言ってくださるのですから、実際に会って生の講話を聴いたら、もっともっと感動する事でしょう。

上映終了後、目をキラキラさせて近づいてきて下さった方がいらっしゃいました。

この方は来年の2月、東京マラソンに出場するらしく、

映画の後半でホノルルマラソンのシーンが出てきた時

自分と重なって見えたとの事。

マラソンのシーンが登場することは全く知らなかったので、

何故に、今、この映画を見せられているのだろうと不思議な力を感じたようです。

求めている人の所には、ちゃんと届くようになっているんだと思います。

また、ホノルルマラソンから帰ってきたばかりという方もいらして

大変驚いていました。

その他、映画の感想をアンケート用紙には書き切れず、私に熱く語って下さったかたもいらっしゃいました。

私は帰宅後、アンケート用紙に向かって、頭を下げながら、ありがとうございますを繰り返しました。

また、何も言わずとも、自ら仕事を見つけて、手伝って下さった青年達の存在が大きかったです。

てんつくマンの書籍販売コーナーを、綺麗にディスプレイしたり、販売したり

会場に100脚の椅子を並べたり

配布チラシの折り込みをしたり

映写機の調節やスクリーンの配置を決めたり





ボランティア団体ForYのメンバー

コミュニティシネマの桝本代表、


飯能駅前・学習塾の塾長と、そこで働く先生達。

受付や細々とした備品を用意してくれた、ゆかりん。

この方々の存在が無ければ、私は倒れていたかも知れません。

この日を迎えるまで、本当に大変でした。

でも、こうしてお客様に喜んで貰えたので、これまでの日々は全て良き思い出です。

さぁ、これからは1月29日に向けて、ひと踏ん張り!

明日は、アメリカから帰国したばかりのてんつくマンに静岡まで会いに行きます。

今日の上映会の報告を出来るのが何よりです。

12月17日、ひとつ成し遂げた記念日になりました。

2年前の今日12月17日は、主人の告別式でした。

火葬は遺族にとっては、大事な儀式だと思います。

あれから2年。

主人は、今の 私を見てどう思っているでしょうか?

2011年12月16日金曜日

No11・チラシ完成

ついに、1月29日てんつくマンの講演会チラシが刷り上がりました。

今日はこのチラシを置いて下さる場所を求めて

一人で日高市、飯能市の公共施設を20か所回りました。

車の免許を取得してから一年半以上が過ぎましたが、このように市内あちらこちらを走り回っていると、改めて運転できる事が有り難いと感じます。



講演会のタイトル

『ひとりの1百歩より、百人の一歩から』なので

実際に100人の方々に会いに出かけて拇印を押して貰いました。

100人分の指紋を集め、それをスキャンして一歩の足型にまとめました。


このアイディアは、偶然に出会ったデザイナーOさんのものです。

てんつくマンの存在を知らなかったOさんが、私からの説明や、主催者としての思いを聞くと、その場で、いきなりチラシの案を出して下さいました。

私は、思いを見事に形にして頂き、とても感動しました。

只のチラシではなく、立派な作品です。

100人分(実は150人分)の同意と期待が込められた、貴重な作品です。

なぜ、このタイミングで才能あふれるデザイナーさんと出会えたのか・・・

大きな流れを感じました。

チラシ作りを手伝ってくれる予定だった友人が、驚いていました。

その友人にとっても、良い勉強になったようです。

このチラシの裏面がまたすごいんです。

だるまが一つ。

余白の部分には、来年の目標や心がけている事、てんつくマンの講演会で印象に残った言葉などを書き込んで貰い

目標が達成できたり、言葉が自分のものになった時点で

目玉を黒く塗りつぶす

たかがチラシ

されどチラシ

モチベーションをずうっとキープする為の一枚。

いつまでも大切に持ち続けていて欲しいのです。

そして願いが叶い黒目を塗りつぶしたら、てんつくマンに送るとか、私に届けて下さっても構いません。

ご自身でいつまでも宝物のように持っていて下さっても良いのです。

2011年12月14日水曜日

No10・命日

2年前の今日を思い出していました。

2年前の今日、主人は47歳で息を引き取りました。

自宅で見送りました。

あの日から、もう2年。

私達夫婦はお互いを名前で呼んだ事が有りませんでしたが、

亡くなる10日ほど前から、主人は私を「ひろこさん」と呼んでくれました。

それまでは「おかあさん」と呼ばれていました。

余命半年と宣告を受けてから、3か月後に亡くなりました。

あの3か月があるから、私は主人と本当の夫婦になれた様な気がします。

子供4人の世話に追われ、二人きりになってもほとんど会話の無かった私達ですが

余命を宣告されてからは、とにかく話をしました。

“お話、しよう!”と主人が声を掛けて来ては、手を休め、向き合って会話をしました。

肩を並べてよく散歩にも行きました。山も登りました。

最初のオペで、左顔面神経を切り取ってしまいましたので

左目は開いたまま、唇も左側口角が下がったままの、かなりいびつな顔になっていました。

“わしは、あなたの様に、テレビに顔を出している分けじゃないからね顔はどうなってもいいんだ・・・まるで、美女と野獣だな”

と話してはいましたが、鏡に映る自分の顔を見てやはり辛かったと思います。

外を歩いていると、すれ違う人が、驚いた表情で主人を見るんです。そして

次の瞬間、見てはいけない物を見てしまったかのように視線をそらす。

そんなことが多々有りました。

なので、主人は私に“並んで歩く時はいつも綺麗にしていてくれ”と言いました。

化粧、身なりをきちんとして、人の視線が私の方に向けられるように

自分の方を見ないように、振舞ってくれと・・・

私も主人の横に立つ時は、主人の左側を覆い隠す様に必ず左側に立ちました。

大きく目を開けて、ニコニコしながら、悲しみの欠片も感じさせないような笑顔で。

実際に悲しくはなかったんです。

主人は必ず生還すると確信してましたから。

この状況も、いつか誇らしく語れる日が来ると信じていました。

長女が生まれてからは、手をつなぐことも無くなりましたが、

最後の3か月間は、いつも手を繋いで歩きました。

その手も、末期の症状で、次第に水風船のようにむくんで、はれ上がり

触れる事も出来なくなっていく分けですが・・・

何もかも、キラキラ輝いていました。

私は決して良き妻ではありませんでしたが、最後は妻として出来る事を全部やったつもりです。

4人の子供を家に置いて、私は病院で寝泊まりしながら付き添いました。

自分でもいつ食事をしたか、いつ寝たのか、わけがわからなくなり、

主人の前では普通にしていましたが

私は日に日に痩せてしまい、病院で何度か意識を失い、倒れてしまったりして・・・

一度だけ、主人の前で泣いてしまった事があります。

主人の寝顔を見ながら、ずっと一緒に生きて行きたいと心の中で叫んでいました。

目を覚ました主人に“泣いているの?”と聞かれ、

“置いて行かないで。私を一人にしないで・・・”と泣き崩れてしまったんです。

主人は私の頭をなでながら、“心配すんな”と言いました。

そして、“わしはこんなに心が平安なのに、あなたが心乱してどうすんの?”と

驚かれたんです。

最後の最後まで強い人でした。

人は生まれてくる時、寿命を決めて人生をスタートさせるんだそうです。

人それぞれに決められた寿命があるのなら、主人もその決められた寿命を全うしただけの事。

決して途中で、ぷつんと終わってしまったんじゃなくて

きちんと終えただけの事。

この世でのお役目を果たして、無事に卒業できたんだ!

そう思うと、医師や病院側に対する不満も清算出来ます。

医師が、住み慣れた家で家族と共に最期を迎えられるようにと

退院させて下さったのが、救いです。

本当に見事な幕引きでした。

きっとそれも主人自身のシナリオだったのではないかと思います。

2年前の今日、明け方、主人が“裕子さん!”と呼びました。

隣でうたた寝していた私が、主人の顔を覗きこむと主人は言いました。

“かなり汗をかいたんだが、体内の水分が減少すると、脳の塩分が不足しないかな?”と。

主人は自分の病状について、ノートに記録を残しており

薬学の博士として、客観的に自分の体を観察していました。

最期の最後まで研究家でした。

結局、それが主人の最後の言葉となりました。

その後、眠る様にして息を引き取りました。

しかも子供達が、“行って来ます”と言って玄関を出て行くのを見届けてからの事です。

高校受験をまじかに控えていた長女が、学校に出かける前でしたので、

彼女が気丈にも、あれこれと気を利かせて動いてくれました。

主人の遺体に泣き崩れる私の背中を、黙って摩ってくれました。

学校向かった子供達が、校門前で主人の死を告げられて戻って来ました。

8歳、11歳、12歳、15歳の残された子供達を前に

私は母として逞しく、凛として、葬儀の準備をこなし始めました。

彼らもショックで、悲しかったはずですが、

私が忙しく動き回る様子を見ていておとなしくしていてくれました。

主人の訃報を聞きつけた私の体操教室の生徒さん達が、

何も言わずとも手伝いに駆けつけて下さり、

本当に助かりました。

近所には、事情は伝えていなかったので、訃報を受け、たくさんの方々が驚いて飛んで来ました。

中には、裸足で走って来た方もいらっしゃいました。

“どうして何も言ってくれなかったのよぉ~!”

“いつから具合が悪かったのぉ?”

“何にも知らなかったぁ、気付いてあげられなくて悔しい、ごねんね、ごめんね”

“一人で抱え込んでたなんてぇ、助けてあげるチャンスさえくれなかったなんてぇ”とか

悲しみの中にあっても、そんな皆さんの迅速な対応が嬉しかったです。

2年前の今頃は、葬儀にむけて色々と準備をしていました。

本当に忙しく、頭をフル回転しながら同時進行でいくつもの雑務をこなしてました。

どこにそんな力が残っていたのか、自分でも不思議なくらいです。

喪主としてこの時期をしっかり乗り越えなければならないと気を張っていましたが

そのままずうっと走り続けてきた感じです。

でも、あの日から、ちょうど2年が過ぎ、今、少し心が緩んだような・・・・

主人が学生時代過ごした京都に、一人で向かう事が出来るようになりましたし。

このブログを書いている途中、サンドラキムチの加藤社長が電話を下さいました。

“今日、命日だね”と。

人前では泣いた事が無い私でしたが、加藤社長の声を聞いて

思わず受話器を持ったまま泣いてしまいました。

言葉にならないくらい、泣きました。

パンパンに張った水風船に針が刺さって、中身が勢いよく飛び出たような感覚。

強い私を演じてきたのは確かです。

でも、演じた強さではなく、本当に強くなれたと思います。

人前に気持ちをさらけ出せるようになりましたから。

今日はこれから介護施設で、演奏します。

主人の倍近く生きていらっしゃる高齢の方々の前で歌います。

最近、長生きしてほしいと思わないんです。

一日一日をめいっぱい楽しんで貰いたい。

いつ終わってもいいように、人生を悔いなく、喜んで過ごして頂きたい。

大笑いして最期を迎えられるように・・・

人は必ず死ぬんだから、楽しんだ者勝ちですよ

2年前はこうして主人の命日についてブログを書いているなんて想像もしていませんでしたが

考えてみれば幸せな事だと思います。

子供達が元気で、この2年間、事故や怪我もなく、

主人が残した会社も、従業員の皆さんのお陰で閉鎖せずに済み、

暮らしていける家もあり、

何より私が健康である事、

私を必要として下さる方々がいらっしゃる事、

つくづく有難い事です。

“お父さん、そっちに引っ越して2年になるけど、どう?

まだまだ、そちらには行けそうもないけど、また語り明かしましょうね!”

No9 ・今年の漢字

一年の世相を漢字一字で表す今年の漢字が決まりました。

毎年この時期、清水寺で発表されます。

ちなみに第2位は「 災 」

「 絆 」は予想通りでした。

私自身、寄付金を送ったり、自分のチャリティコンサートを開催したり、食糧品や衣類を送ったりしましたが、

実際、東北の方々と具体的にどのような「絆」を結んできたのかと尋ねられたら

正直、答えられません。

でも、私にとっても今年は、やはり「絆」の一年でした。

今年は凄まじい勢いで、たくさんの方々とご縁を結ぶ事が出来ました。

予め用意されていた人達だったのだと思えるような関係。

今後も末永く続いていくであろう人達

糸が半分と書いて 絆

糸の先端を自分が持つと、相手が片方の先端を持つ。

あるいは、2本の糸が絡み合いながら1本の糸になる。

誰とでもそんな関係を築けるわけではないのけれど、

今年は、底辺が一緒という人達と出会い、充実した一年を過ごす事が出来ました。

「絆」を深め合う事が出来ると、心が安定します。

絆は、生きている人との関係だけではなく、

太陽や月とも結べるような気がします。

大地や樹木や草花との間で結んだ絆もあります。

絆の年、皆さんはどなたと絆を結びましたか?

2011年12月12日月曜日

No8・ナレーション撮り

12月7日(水)

東京・国分寺のスタジオでナレーション撮りをしました。

久しぶりのナレーション撮りでしたが、映像が興味深かったので

楽しみながらやらせて頂きました。

依頼側の社長さんに喜んで頂けて良かったです。

画面に顔を出さず、声だけで情報を伝えるには集中力が要ります。

顔の表情で誤魔化す事が出来ないからです。

でも、基本は“伝えたい”思い、これが大事です!

No7・アニキ塾

12月11日(日)

東京都内で、アニキ(筒井正浩氏)塾・東京第1期生最終講プレゼン発表会が行われ、

私が司会を務めさせて頂きました。


会場には約60名のお客様がご来場くださり、プレゼンター12名のスピーチに耳を傾けていました。

講師の「アニキ」こと、筒井正浩さんは年間200回の公演で全国駆け巡っていらっしゃいます。

学校や企業等、1000名以上の前であっても、少人数の集まりであっても

人と向き合う姿勢は変わらず、愛情たっぷりに話して下さいます。

ですから、ワークショップの内容よりも、アニキの人柄にひかれて集まって来るケースが多いようです。

確かに、速読のスキルは効果を生んでいて、実績もありますが、

それ以上に、愛情で人を引き寄せてしまうんです。

私は今年7月に、速読1Dayセミナーに参加させて頂きましたが

バックナンバー7月号No5

あの時よりも、大きく、広く、そして、ますます謙虚になられたように感じました。



アニキはてんつくマンともコラボしているので、会場内のお客様はほとんどの方が

てんつくマンを知っており、てんつくマンの映画も観ている方々ばかりでした。

講演会を主宰する旨を告知しますと、皆さん早速スケジュール帳に記入して下さいました。

また、先日、飯能で開催された「登山家・栗城史多」講演会の会場にいらしたという方もおり、

私が壇上でてんつマン講演会の告知をしたのを覚えていて下さり、

声を掛けて来て下さいました。

私が立ち上げた、「チーム・和と輪」の名前の如く、

人と人がどんどん繋がって行くのが見えるんです。

以前も紹介しましたが、“人は腹を括ると人を引き付ける”という言葉

それは頑張っている人を見て応援したくなるからだと思います。

精一杯頑張っている人は、それだけで、人に勇気を与えます。

極たまに、頑張っている人を妬んだり、邪魔をしたり、いじめたりする人もいますが

よく考えてみれば、それも大事なお役目なのかな・・・と思います。

それでもぶれないか?心は揺るがないか?本当に大丈夫か?

それを確認する為に用意されたお役目の方々。

相手の思い込みで判断されて、傷つくこともありますが

何事も無いと、現状維持のままで心は鍛えられませんから、

色々な感情を通過した方が、強く、また優しくなれると思います。

出来事は変えられませんが、出来事に意義付けをする事は出来ますから

大失敗の出来事でも

“**を学ぶ為にはあれくらいの失敗でなければ気付かなかった・・・”と

意義付け出来たら、成功への道標としての必然的出来事となるわけで。

過去は変えられるものではないけれど、どう捉えるかで、いくらでも印象は変わって来ます。


また、傷つく言葉、無神経で乱暴な言葉、感情的な言葉、嫌味な言葉、刺々しい言葉・・

そんな言葉を浴びせられた時、深呼吸して

“ありがとう、ありがとう、本当にありがとう!”と、

たとえ感情が伴っていなくても、とりあえずは言ってみる。

怒りに自分の心を同調させないために。

弁明するのもエネルギーがいるので、どうせエネルギーを使うのだったら

相手の為に、相手の心の波が沈まる様に祈る。

なかなか難しいですが、そうやって成長して行きたいと思います。

2011年12月9日金曜日

No6・再び京都へ

来たる2016年、高麗郡建郡から1300年を迎える為、

日高市では着々と準備を進めている所です。

私は「高麗郡建郡1300年記念事業・実行委員」として、

改めて色々と歴史を学んでいるところです。

昨年は「平城遷都1300年」の年でしたので、奈良に取材に行き、

その様子は、飯能日高ケーブルテレビでオンエアーされました。

今年、京都の伏見稲荷は鎮座してから1300年という事で
伏見稲荷の朱色の鳥居が続く小高い山を実際に頂上まで登りました。

奈良に行ってみて初めて感じた世界があった様に

1300年という歴史は、現場の空気や残っている自然に触れてみないと分からないものです。


国宝第1号の広隆寺の紅葉は本当に美しかったです。


東京から一緒に行った中村君(21歳)と一緒に紅葉の中で。


ご覧下さい!この燃えるような紅


来年早々、あるジャーナリストに都内でお会いすることになり、

それまでに、その方の本に登場する場所を実際にこの目で見ておきたいと、

まず訪れたのが、京都太秦の蚕の社、木の島神社

鳥居が3本あるんです。

いったいどうした分けか?

そのジャーナリストの見解が実に面白いのですが・・・

詳しくは来年、ご報告いたします。

この方の最新の書籍に、てんつくマンの活動にも触れていましたので

とても気になるジャーナリストです。



おもかる石

自分の夢を思い浮かべながら、石燈籠の上の丸石を持ってみます。

思ったよりも軽く感じた人は、その夢は比較的スムーズに叶う

しかし

重くて持ち上げれない人には、なかなか難しい夢

ということで

私も挑戦。実は想像以上に重かったです

いえ、かなり重かったんです。

“軽々と持ち上げてしまえるような夢は見ないもん!”と

切り替え

逆に“頑張って見せる!と、気合が入いりました


天気予報では降水確率が高く、途中雨がぱらついたのですが

ここぞという時に、不思議と太陽が顔を出すんです。

伏見稲荷の頂上にたどり着くまでは、確かに曇っていたのですが

頂上に着くと、いきなり太陽の周りの雲が、すうっとひいて

見事な太陽が姿を現しました。

ここが伏見稲荷の頂上です。

頂上までたどり着いた達成感に加え、そのご褒美の如く

後ろを振り返ると、

美しい太陽が・・・・

思わず両手を合わせてしまいました。   
 
登った甲斐がありました。

21歳の中村君は頂上に設置してあるおみくじで大吉を引き

喜んでいました。

まだ若いのに、神社巡りが好きな彼は大満足の様子。

日帰りの京都でしたので、じっくり写真を撮る間もなく

慌ただしい一日ではありましたが

内容の濃い一日となりました。






                                                    

No5・埼玉テレビに出演

12月8日(木)

テレビ埼玉の『彩の国ニュースほっと』で日高市の名物「高麗鍋」のPRをする為、

スタジオ収録に臨みました。

日高市で行われる『高麗鍋コンテスト』の今年の優勝チーム、

『食彩房・はし本』の橋本さん

裏で撮影用に盛り付けをしています。

日高市でキムチを作り続けて30年の「サンドラ・キムチ」

社長の加藤さんが撮影用のキムチを1㎏提供して下さいました。

リハーサルが終わり、本番待ちの時間、埼玉県のマスコットキャラクター「コバトン」とのショット
こちらがコバトン君。癒されますよね。

収録が終わり、司会の落語家・楽生さんと。

控室でしばらく話しましたが、中国に1年間行ってらしたとの事

私が少し韓国語を話しますので、

中国語と韓国語の違いなどを、互いに発音しながら確認したり、

高麗鍋から高麗人参の話になり、

私もついつい、熱く語ってしまいました。

楽生さんは、薬を飲まないそうで、

風邪の時は高麗人参の焼酎浸けを愛用されているとかで

思わず拍手してしまいました。

オンエアーは、12月10日(土)am9:00~

番組の中のほんの一瞬ですが、

少しでも高麗鍋の存在を知って頂けたら嬉しいです。

2011年12月8日木曜日

No4・栗城史多

12月7日(水)


















登山家・栗城史多さんの講演会に行きました。

限界に挑み続ける、若き勇者の生きざまに頭が下がりました。

標高7500メートルから先はデスゾーンと呼ばれ、酸素濃度が地上の3分の1になる生命の存在を感じさせない場所。

それなのに・・・・

3年前、彼は世界第8位高峰マナスル(8162m)において日本人としては初となる単独・無酸素登頂に成功

2年半前は世界第7位高峰タウラギリ(8167m)の単独・無酸素登頂にインターネットライブ中継に成功

昨年は世界最高峰エベレスト(8848m)単独・無酸素登頂の挑戦、が、天候悪化の為「下山」

今挑戦し続けています。

登頂の映像はあまりにも怖くて震えるくらいでした。

もし、自分の息子がそのように死と隣り合わせの世界へ向かおうとしたら

私は止めてしまうでしょう・・・

でも栗城さんは言います。

“お前を信じてるから!”と言ってあげて下さいと。

99人に反対されても、一人が“信じているよ”と言ってくれたら

その言葉を胸に挑戦し続けることが出来ると。

27歳の青年に、大切な事を教えられました。

『高い山は酸素が少ない。

吸っても吸っても体に力が入らない

でも吸おう吸おうとするから駄目なのだ。

酸素が少ない時は、吐けばいい。

吐けば、入ってくる。

自分が出そうとしないと入ってこない。

欲しい欲しいってやってると入ってこない。

何か欲しいときは、自分から吐くこと。そして、与えること。

自分が吐き、与えることによって酸素も喜びも入ってくる 』

彼は、山から多くを教えられ、どんどん謙虚になって行く。

そんな気がします。


トークショーが始まる前に舞台袖で、ご挨拶し、トーク終了後にてんつくマンの講演会の告知をさせて頂く段取りをお伝えしました。

帰りに、栗城さんの書籍にサインをして頂きました。

栗城さんは、てんつくマンとは何度かトークショーのコラボをしているので

てんつくマンの講演会を主催する事や、今アメリカにいる事を伝えると、宜しくお伝え下さいと言われました。

“1月29日ですね”と確認してましたんで、ひょっとしたら・・・

お客様が全員退場した、空っぽの客席を見ながら

1月29日、この会場が満席になる映像を頭に描いていました。

最後列から見た映像

舞台から見た映像

1月29日、私はここで歌う

ピアノの弾き語り

曲は「希望の種プロジェクト」のテーマソング

『ひまわり』

            それに合わせて、てんつくマンが巨大書下ろしをする。

                 その瞬間をイメージしてました。

        会場と心を一つにして、感動を分かち合うその瞬間に向かって

               残りの日々を、更新して行きます。

         “何か手伝える事があったら、何でも言って下さい!”とか   

                “出来るだけ、仲間集めます”とか

                “1月29日、空けときます!”とか

       初対面にも関わらず、たくさんの方々に応援の声を頂きました。

       「動けば変わる!」というてんつくマンの言葉に押し出されるまま

                   ここまで来れました。

          日々、新たな出会いがあり、絆が生まれ、奇跡の連続です。

              一昨日、京都に向かう新幹線の中から、

            羽田空港のてんつくマンにメールで報告をすると、

      “ミラクルお越しまくりやん!ヒロコちゃん素晴らしい!!”

                と返信がありました。

       どうか、このブログを読んでくださっていらっしゃる皆さん、


   12月17日の上映会と、1月29日の講演会に足をお運びくださいませ。

               お待ちしています。